高松地方裁判所 昭和57年(行ウ)3号 判決 1987年8月27日
原告
学校法人倉田学園
右代表者理事
倉田キヨエ
右訴訟代理人弁護士
白川好晴
被告
香川県地方労働委員会
右代表者会長
武田安紀彦
右訴訟代理人弁護士
佐藤進
右指定代理人
光中等
同
池田雅之
同
関誠一
同
川西邦俊
参加人
香川県大手前高等(中)学校教職員組合
右代表者執行委員長
中内正嗣
右訴訟代理人弁護士
三野秀富
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告が、参加人を申立人とし、原告を被申立人とする香労委昭和五三年(不)第一号不当労働行為救済申立事件(以下「本件救済申立事件」という。)について、昭和五七年六月二五日付けでした命令のうち、主文第一ないし第四項を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 被告は、本件救済申立事件について、原告に対し、昭和五七年七月一七日に同年六月二五日付け命令書(その記載内容は、別紙命令書(略)のとおりである。以下「本件命令書」という。)の写しを交付し、その主文第一ないし第四項で、救済申立てを一部認容する命令(以下「本件命令」という。)を発した。
2 しかし、本件命令は違法であるから、その取消を求める。
二 請求原因に対する被告の認否及び主張
1 請求原因1の事実を認めるが、同2の本件命令が違法であるとの主張は争う。
2 被告が本件救済申立事件につき不当労働行為を認定して本件命令を発した理由は、本件命令書に記載のとおりであり、被告は、そのとおり事実上及び法律上の主張をする。以上によれば、本件命令は適法である。
三 被告の主張に対する原告の認否
本件命令書の理由「第1 認定した事実」(ただし、本件請求に直接関係のない5(1)の事実を除く。)についての認否は、次のとおりであり、被告の主張中その余のものは、すべて争う。(なお、以下においては、右「認定した事実」中の略称をそのまま用いることがある。)
1 認定した事実1の各事実は認める。
2 同2の各事実については、(1)、(4)、(7)のうち、各配布行為がなされた時間帯の点と、各配布行為の方法として、印刷面を内側にして二つ折りにする方法がとられていたとの点、(2)のうち、倉田校長が星野前委員長に対してした要求内容の点を争い、その余は認める。
3 同3の各事実については、(3)、(5)及び(8)を争い、その余は認める。
4 同4の各事実については、(1)のうち、倉田理事長が武田に対し、「わずか十二、三名の組合に入るとは思わなかった。」と述べたとの点を否認し、その余は認める。
5 同5の(2)の各事実は認める。
四 被告の主張に対する原告の反論
1 本件命令主文第一項(ビラ配布を理由とした訓・戒告処分の件)について
(一) 本件命令は、次の点で事実認定を誤っている。
(1) 本件命令は、前記認定した事実2の(1)、(4)及び(7)において、参加人が昭和五三年五月八日、翌九日及び同月一六日にした職場ニュースの配布について、いずれも始業時刻(午前八時二五分)前になされたものと認定しているが、右配布の時間帯は、いずれ午前中ではあったものの、始業時刻後であった可能性が大であり、特に、同月八日の配布は、就業時間中である午前一〇時四〇分から同一一時三〇分までの間になされたものである。
(2) 本件命令は、右(1)と同じ箇所において、右各職場ニュースの配布方法として、印刷面を内側にして二つ折りにする方法がとられていたものと認定しているが、その配布を担当した参加人の組合員のうち複数の者は、右のような方法を守っていなかった。また、同月九日に配布された職場ニュースは、両面印刷されていたので、それが印刷面を内側にして二つ折りにされていたというのは、明らかな事実誤認である。
(3) 本件命令は、前記認定した事実2の(2)において、倉田校長が星野前委員長に対し、「職場ニュースの配布は、教育の場である学校の性質上、放課後に行うよう」要求した旨認定しているが、そのとき倉田校長が要求したのは、「本校内で許可なく業務外文書を配布しないこと」というものであった。
(二) 本件命令は、次のとおり判断を誤っている。
(1) 原告は、従前から、その就業規則の一四条一二号で、職員が書面による許可なく校内で業務外の印刷物を頒布することを禁じていたところ、参加人の組合員は、これを知りながら、あえて、昭和五三年五月八日、翌九日及び同月一六日の各午前中、丸亀校の職員室内で、右許可を得ずして業務外の印刷物である職場ニュースを配布した(以下、右各配布行為を一括して「本件無許可ビラ配布」又は単に「本件ビラ配布」ということがある。)。そこで、原告は、右配布について主導的な立場でこれを計画・決定・指揮・実行せしめた星野前委員長に対し、前二回の配布について訓告の、最後の配布について戒告の各懲戒処分をしたものである(なお、就業規則上は、前記一四条一二号違反の場合に訓・戒告処分をなしうることにはなっていないが、より重い処分が規定されているので、いわゆるもちろん解釈により、訓・戒告処分をすることも許される。)。
(2) 本件命令は、右懲戒処分をしたことが、正当な組合活動を理由とする不利益取扱いにあたるものと判断しているが、次の(4)で述べるとおり、本件無許可ビラ配布を正当な組合活動とする余地はないから、右判断は失当である。
(3) また、本件命令は、原告が本件無許可ビラ配布を理由に右懲戒処分をしたことについて、それが施設管理上格別の必要性がないにもかかわらず、組合活動を制約する目的でなされたものであるとして、参加人の運営に対する支配介入にあたると判断している。
しかしながら、参加人の機関紙である職場ニュースが前記のように職員室内で配布された場合、いまだ社会的に未熟な生徒がその内容を見る可能性及びそれによって教育上の弊害が生じる可能性があり、また、教職員も就業時間中にこれを読む可能性がある。これらの可能性がある以上、右配布を規制することには合理的根拠があるのであって、前記懲戒処分は、専ら、このような施設管理上の必要性に基づいてなされたものであるから、右判断も失当である。
(4) 一般に、企業に雇用されている労働者は、企業の所有し管理する物的施設の利用をあらかじめ許容されている場合が少なくない。しかしながら、この許容は、原則として、雇用契約の趣旨に従って労務を提供するために必要な範囲において、かつ、定められた企業秩序に服する態様において、右施設を利用することを許容するにとどまるものであり、当該労働者に対し、右の範囲を超え、又は、右と異なる態様において、それを利用する権限を付与するものではない。
いわゆる企業内組合の場合にあっては、企業の物的施設をその活動に利用する必要性の大きいことは否定できないところであるが、労働組合による企業の物的施設の利用は、本来、使用者との団体交渉等による合意に基づいて行われるべきものであり、利用の必要性が大きいことのゆえに、労働組合又はその組合員が右施設を組合活動のために利用しうる権限を取得し、又は、使用者が右利用を受忍する義務を負う理由はない。
右のように、労働組合又はその組合員が使用者の所有し管理する物的施設であって定立された企業秩序のもとに事業の運営の用に供されているものを使用者の許諾を得ることなく組合活動のために利用することは許されないものというべきであるから、労働組合又はその組合員が使用者の許諾を得ないで右のような施設を利用して組合活動を行うことは、これらの者に対しその利用を許さないことが当該施設につき使用者が有する権利の濫用であると認められるような特段の事情がある場合を除いては、職場環境を適正良好に保持し規律ある業務の運営態勢を確保しうるように当該施設を管理利用する使用者の権限を侵し、企業秩序を乱すものであって、正当な組合活動としては許容されないものというべきである。
しかして、本件にあっては、原告が参加人に対し、その許可なくして職場ニュースを校内、ことに職員室内で配布するのを認めたようなことは一切ないし、これを許さないことが権利の濫用であると認められるような特段の事情も存しないから、本件無許可ビラ配布を正当な組合活動と認める余地はないというべきである。
2 本件命令主文第二項(いわゆる中内の学級担任はずしの件)について
(一) 本件命令は、次の点で事実認定を誤っている。
(1) 本件命令は、前記認定した事実3の(3)において、学級担任の通常のサイクルが六年間、四年間又は三年間であると認定し、かつ、本件命令書の理由「第2 判断及び法律上の根拠」の4の(2)において、原告主張の二年間のサイクルは通常のサイクルとしては認められないと判断している。しかしながら、右の四年間のサイクルとは、中学三年から高校三年までの期間を指すものであるところ、二年間のサイクルは、この残余の期間である中学一、二年の期間を指すもので、両者は相互に補完し合う関係にある。したがって、四年間のサイクルを通常のものと認めながら、二年間のそれを通常の存在として認めないのは、背理以外の何物でもない。
(2) 本件命令は、前記認定した事実3の(5)において、特段の理由がないのに学級担任をはずされた事例があるものとして、その数等を認定しているが、そのような事例は全くない。
(3) 本件命令は、前記認定した事実3の(8)において、中内が昭和五二年度に中学二年の数学を担当していたときの授業進度の遅れが若干のものであったこと及びその遅れについて学年途中には何らの注意もされなかったことを認定している。しかし、右進度の遅れについては、同年度の数学部会で数回にわたって注意がなされたものであり、また、その遅れの程度も、数回にわたって注意をしなければならないほど極端なものであった。
(二) 原告が、昭和五二年度に中学二年の学級担当をしていた中内につき、翌年度には学級担任をさせなかったのは、以下の理由によるものであり、中内が参加人の組合員であったこと等とは何らの関係もない。
(1) 原告は、学級担任の選任については、従来から、<1>いわゆる中高一貫教育の立場から要請される固有のサイクル制の観点、<2>各クラスに最適任の教員をあてるという観点、<3>若手の教員に経験を積ませるというような人材の養成ないし登用の観点等を総合して、これを決定して来たものである。
(2) 中内は、前記のように、昭和五二年度において、中学二年の学級担任であったほか、主要教科である数学を中学二年の各クラスに教えていたが、その授業の進度を極端に遅らせていたため、同年度末の時点では、翌五三年度の中学三年の数学をひき続き中内に担当させることは絶対にできない状況となっていた。そこで、原告は、昭和五三年四月、これを中内には担当させないことに決定した。
(3) ところで、中内が昭和五二年度に中学二年の学級担任であったことと、その学年の数学の授業を担当していたことの間には、極めて密接な関係があった。というのは、丸亀校では、従来から、ある学年の主要教科の授業を担当する教員が当該学年のいずれかのクラスの担任になるという取扱いが、学級担任の教師と当該クラスの生徒との接触の時間数をできるだけ多くするという観点から、かなりの程度行われて来ていたからである。
(4) 右(3)のような背景の下で、右(2)のような事態が生じたため、原告は、右(1)で述べた各種の観点(そのうち<1>のサイクル制の観点としては、二年間のそれ)をも考慮の上、中内を昭和五三年度には学級担任にしないこととしたものである。
(5) なお、本件命令は、前記認定した事実3の(4)の事実、すなわち、参加人が昭和五一年一〇月に結成された直後の昭和五二、五三年度において、従来は学級担任となることが少なかった各種主任の教員で学級担任となった者の数が増加しているのに対し、参加人の組合員で学級担任となった者の数が減少しているという事実を重視しているようであるが、右の現象は、ちょうどそのころ、原告において進学率向上のため学級担任をベテラン教師に移す政策をとった結果、たまたま生じたものにすぎない。
3 本件命令主文第三項(武田に対する退職勧奨の件)について
本件命令は、倉田理事長が昭和五二年七月八日、武田の伯父の近藤義郎(以下「近藤」という。)を介して武田に退職を勧奨したのは、武田が参加人の組合員であることを嫌って同人を原告から排除しようとする意図でなされたものであるとして、これが参加人に対する支配介入にあたると判断している。
しかしながら、右退職勧奨のほか、本件命令が言及するその他の退職勧奨の真相は、以下のとおりであって、武田が参加人の組合員であることとは何らの関係もないから、右判断は失当である。
(一) まず、昭和五二年一月二〇日に倉田理事長が武田を理事長室に呼んだのは、同人がそれまでに、自己の月給が七万円であるとの虚偽の事実を生徒に吹聴したり、教室で生徒に対し原告の進学中心の教育方針には賛成できない旨を表明したりするという事実があったので、これを注意するためであった。前記認定した事実4の(1)における「経済的豊かさを求めるのであれば、田舎へ帰った方がよい。」との倉田理事長の発言は、右のような事実を背景に、原告の方針に従えないのなら退職してはどうか、という趣旨でなされたにすぎないものである。本件命令は、このとき更に「わずか十二、三名の組合に入るとは思わなかった。」との発言があった旨認定しているが、倉田理事長がこのような発言をした事実はない。
(二) 次に、昭和五二年七月八日に倉田理事長が近藤を呼び出した上、同人を介して武田に退職を勧奨した経緯は、次のとおりである。すなわち、武田については、右(一)のとおり、原告の教育方針に賛成できない旨を直接生徒に対し表明するという事実があったのに加え、前記認定した事実4の(2)のとおり、生徒のインタビューに答えて原告の教育方針を批判する談話を学級新聞に掲載させるという事実があった。これらの事実は、いずれも懲戒処分の理由にもなりうるものである。なお、右の学級新聞(昭和五二年六月三〇日付け)自体は、その配布直前に原告により差し止められ、生徒には訂正された内容のものが配布されたけれども、その過程において、インタビューや編集に参加した生徒が武田の右のような見解を了知したことはもちろんである。そこで倉田理事長は、武田を採用するにあたり、その人柄を保証して強く推薦した近藤に対し、武田が進学を主体とする原告の方針に従えないのなら他の学校に移った方が本人のためになるとして、その退職を勧めたものである。
(三) また、昭和五五年七月一六日に倉田理事長が武田に対し退職を勧奨した経緯は、次のとおりである。すなわち、右(二)の倉田理事長と近藤との会談後である昭和五三年三月、近藤から、武田については本人の気に入る就職口が見つからず、本人も原告の方針に従うと言っているという趣旨の手紙が倉田理事長あてに来たので、倉田理事長としては、過去のことを不問に付し、武田の成長を気長く待つつもりであった。ところが、武田は、昭和五五年四月に至り、右(二)のように倉田理事長が近藤を呼び出したことに関し、それが前記のような自己の非違行為に起因することを棚にあげて、自己の父親が右呼出のショックで死亡したかのような印象を与える虚偽かつ非常識極まりない記事を書いて、同月八日付けの参加人の職場ニュースに掲載させ、これを原告の職員に配布せしめるという行為に及んだ(この行為も、当然、懲戒処分事由たりうるものである。)。そこで、倉田理事長は、武田が原告の教育方針を遵守する意図をかつて有したことがなく、今後もそのようになる見込みがないと判断して、同年七月一六日、武田に退職を勧奨したものである。
4 本件命令主文第四項(掲示板設置要求に関する団体交渉の件)について
(一) 本件命令主文第四項は、原告に対し、参加人からの掲示板設置要求について、誠意をもって団体交渉に応じるべきことを命じている。
しかしながら、団体交渉の対象事項の分類上、チェック・オフの依頼や、事務所あるいは掲示板設置場所の貸与要求のように、労働組合が使用者に対して特別の契約関係に入ることを要求するものは、任意的団体交渉事項であるとされている。そうすると、参加人の右要求については、そもそも原告に団体交渉に応じるべき義務はないのであるから、それにもかかわらず、原告にその義務を課した右主文は、明らかに違法なものである。
(二) 仮に、掲示板設置要求に関する事項が義務的団体交渉事項であるとしても、これについては、すでに昭和五二年一〇月一五日及び昭和五三年五月九日の二回にわたり、十分な団体交渉が行われているのであって、原告が誠実に交渉しなかったものとされるいわれはない。
この点、本件命令は、右二回の団体交渉において、参加人が具体的な掲示板設置場所を提案していたのに、原告が「学園内には適当な場所がない。」などの回答に終始し、具体的な協議をしなかったことをもって、十分な団体交渉が行われたとはいえず、原告は誠実に交渉しなかったものであると判断している。
しかしながら、原告は、掲示板を校内に設置することは認めないとの方針で右二回の団体交渉に臨み、現に参加人に対し右方針での回答を行ったものであるところ、原告が校内に掲示板を設置することを許すか否かは、便宜供与の問題であって、原告の自由裁量に属することであるから、右のように、原告がこれを許さないという方針をとっても完全に合法的なのであり、そうだとすれば、参加人が掲示板の設置場所について具体的な提案をしたからといって、もし許すとすれば、どの場所にするかというような仮定的な協議をする必要性ないし義務が生じるはずはなく、もはや団体交渉を行う余地はなかったものである。
五 参加人の主張
1 本件命令主文第一項(ビラ配布を理由とした訓・戒告処分の件)について
(一) 参加人が昭和五三年五月八日、翌九日及び同月一六日にした各職場ニュースの配布は、前記認定した事実2の(1)、(4)及び(7)のとおり、いずれも始業時刻前に行われたものであり、また、その配布方法も右に認定されているとおりであって、これが配布されたことにより原告における業務が妨げられる等のことは、一切なかった。右職場ニュースは、参加人の機関紙であり、参加人がこれを配布したのはその組合員の団結を擁護する等の労働組合として正当な目的による情宣活動としてであり、配布した各職場ニュースの内容自体にも何ら問題はなかった。以上によれば、参加人の右配布行為は、正当な組合活動であることが明らかである。
(二) また、右(一)で述べたような本件無許可ビラ配布の実態に照らすと、これに対し就業規則違反であるとして懲戒処分をしなければならないような施設管理上の必要性は全くなかったものであり、このことに、原告が参加人の結成以来、これに対する嫌悪をあらわに表明し、参加人がその機関紙たる職場ニュースを校内で配布することを含む種々の問題について団体交渉を通じて解決することを求めたのに対し、誠意をもってこれに答えず、問題を当事者間で解決しようとする姿勢を全く示さなかったことなど、本件救済申立事件の一連の経緯等を考え合わせると、原告が星野前委員長に対し、本件無許可ビラ配布を理由に懲戒処分をしたことは、労働組合法七条一号及び三号の不当労働行為に該当することが明らかである。
2 本件命令主文第二項(中内の担任はずしの件)について
以下の諸点を総合すれば、原告が昭和五三年度に中内を学級担任からはずしたのは、中内が参加人の組合員であるからであり、かつ、そのことによって参加人の弱体化を図るためであったことが明らかである。
(一) 原告における学級担任の任命は、従来、いわゆる持ちあがり制により、六年間(中学一年から高校三年まで)と三年間(中学の一年から三年まで及び高校の一年から三年まで)のサイクル制で運用されており、昭和五一年一〇月に参加人が結成されるまでは、病気・退職による場合や、右サイクルの最後まで持ちあがった場合等を除き、学級担任からはずされるということは、ほとんどなかった。
しかるに、参加人結成直後の昭和五二、五三年度において、それぞれ二名の参加人組合員が、前記のようなサイクル制の切れ目等の理由がないのに学級担任をはずされたほか、昭和五三年度においては、更に、それまでの四年間以上にわたり単独で学級担任を継続していた二名の参加人組合員が、異例の二人担任制における補助的地位に置かれた。右六名の組合員は、そのうち五名が参加人の役員(副執行委員長、書記長及び会計監査委員各一名と執行委員二名)であり、他の一名も、香川県私立学校教職員組合連合の執行委員であるなど、いずれも参加人の主要な組合員であった。そして、これらの組合員に代わって学級担任となり、あるいは、二人担任制における主導的地位に立ったのは、従来は学級担任となることが少なかった管理職を中心とする非組合員の教員であって、その結果、前記認定した事実3の(4)の第三、四段落にあるような現象を生じるに至った。
(二) 中内が昭和五三年度に学級担任とされなかった理由として原告が指摘した点は、いずれも首肯し難い。
(1) 中内は、昭和五三年五月一〇日、倉田校長に対し自己が学級担任からはずされた理由を尋ねたが、同校長は、「中学三年が転機である。」と言うのみで、何ら具体的理由を説明しなかった。
(2) 原告ないしその関係者は、本件救済申立事件が被告に係属した後になって、中内の担任はずしの理由として、<1>学級担任のサイクル制のうち二年間のそれを適用した、<2>各クラスに最適任の教諭をあてるという観点や、人材登用の観点から学級担任を選任した結果、中内が担任からはずれた、<3>昭和五三年度の中学三年の英語力を強化するため、中内を担任からはずした、<4>中内が昭和五二年度に中学二年の数学の授業進度を故意に遅らせていたので、担任からはずした、などと指摘するに至った。
(3) しかし、右<1>の点については、そもそも原告が主張するような二年間(中学一、二年)のサイクル制は存在しないのであるから、理由にはならない。
(4) また、右<2>の理由は、持ちあがりが原則であることからして根拠が薄弱であり、かつ、右(一)の事実等に照らして全く説得力がない。
(5) 次に、右<3>の点は、昭和五二年度において丸亀校の副校長・数学科主任・中学二年の学年主任を兼任し、かつ、中内とともに中学二年の数学を担当していた寺嶋正昭が指摘したもので、昭和五二年度の中学二年生の英語力が芳しくなかったので、昭和五三年度の中学三年の学級担任に英語担当の小林教諭を任命した結果、中内が担任からはずれることになったというのである。しかし、寺嶋の右指摘自体を倉田校長は否定しており、このことだけからでも右指摘の信用性を否定するに十分であるが、付言すると、右小林教諭が昭和五三年度に中学三年の英語を担当するようになったのは、昭和五二年度に中学二年の英語を担当し、本来ならひき続き昭和五三年度に中学三年の英語を担当するはずであった藤高教諭が同年三月三一日限り原告を退職したためであって、寺嶋の右指摘内容は、それ自体事実に反している。
(6) 更に、右<4>の理由については、昭和五二年度中はもとより、その後も本件救済申立事件の係属に至るまで、中内に対し昭和五二年度における数学の授業進度の遅れが指摘されたことは全くなかったことや、前記寺嶋が右の進度の遅れの点は中内の担任はずしの理由ではなかったと述べていること等からして、明らかに虚偽の理由というべきである。のみならず、そもそも、数学の授業進度の遅れに対する批判は、数学の担当者としての授業のやり方に対する批判にはなりえても、学級担任としての教育業務に対する批判にはなりえないものであるから、担任をはずす理由としては不合理である。
(三) 原告は、昭和五四年度以降において、右(一)のように昭和五二、五三年度に学級担任からはずした参加人の組合員を徐々に学級担任に復帰させていったが、中内だけは、学級担任を命ぜられないまま現在に至っている。ちなみに、参加人の組合員たる教員のうち、昭和五三年度から現在まで学級担任に命ぜられていないのは、昭和五四年六月から参加人の執行委員長をしている中内と、本件で退職勧奨が問題となっている武田の二人だけである。
3 本件命令主文第三項(武田に対する退職勧奨の件)について
(一) 昭和五二年一月二〇日に武田が倉田理事長から退職を勧められた経緯は、次のとおりである。すなわち、このとき武田は、倉田理事長から参加人の組合員の住宅事情を尋ねられたので、岡田教諭ら数名の組合員の氏名を挙げてその住宅事情を説明した上で、待遇改善方を要望した。すると、倉田理事長は、武田が岡田教諭の名を挙げた際、「岡田先生は組合に入っていないでしょう。」と言ったほか、右要望に対し、「あなたも組合と同じ考えか。」、「あなたが、わずか十二、三名の組合に入るとは思わなかった。」、「経済的豊かさを求めるなら、田舎へ帰った方がよい。」などと発言し、結局、武田が参加人の組合員となっていたことを嫌悪して、退職を求めたのである。
原告は、このとき倉田理事長が武田を呼んだ理由につき、同人が生徒に対し、自己の月給が七万円であると吹聴したり、原告の教育方針に賛成できない旨を表明したりしていた事実について注意をするためであった旨主張するが、そもそも右のような事実はなく、したがって、武田がその点の注意を受けたということも全くない。
(二) 昭和五二年七月八日に倉田理事長が近藤を呼び出した上、同人に武田の退職を求めたのも、次のような点、すなわち、<1>倉田理事長は、前記認定した事実4の(2)のインタビュー記事の件につき、武田が「方針が少し合わない。勉強第一主義には反対」と発言した真意を確かめ、あるいは、弁明を聴く等のことを全くしていないこと、<2>武田は、当時、高校三年生に対して自主的に早朝及び放課後の課外授業を実施するなど、進学を主体とする原告の教育方針に従っていたこと、<3>右インタビュー記事の件については、それが掲載された学級新聞自体は発行が中止され、記事が訂正されたのであるから、その件を理由として武田に退職を勧奨する理由ないし必要性はなくなっており、特に、伯父の近藤をわざわざ愛媛県から呼び出してまで武田の退職を求めなければならないような理由ないし必要性は全くなかったこと等からみて、右(一)のときと同様、武田が参加人の組合員であることを嫌悪したというのが、その真の動機であったものというべきである。
(三) 昭和五五年七月一六日に武田が倉田理事長から退職を勧奨された際、問題にされたのは、<1>原告が主張する昭和五五年四月八日付け職場ニュースの記事内容のことのほか、<2>武田が経歴を詐称していたのではないかということ、<3>武田が生徒に対し、自己の月給が七万円であると吹聴していたのではないかということ及び<4>武田が近藤に対し、「今後、学校の教育方針が自分に合わない。」などと発言しない旨の約束をしていなかったということの計四点であった。しかし、右<1>の点については、その記事内容が、原告の主張するようなもの(つまり、倉田理事長が近藤を呼び出して武田の退職を求めたことのショックで同人の父が死亡したというような内容)でないことは、右職場ニュースの記事自体から明らかである。また右<2>、<3>の点は、そもそも事実無根の事柄である。更に、右<4>の点は、近藤と武田の間で右のような約束をするかどうかが話題になったことはなかったので、そういう約束はしていないと述べたまでである。以上のとおりであるから、これらの点が武田に退職を求める客観的理由になりえないことは明らかで、右退職勧奨がこれらのことを真の理由としてなされたものとは到底考えられないところである。
(四) 更に、武田に対しては、昭和五六年三月一九日にも倉田理事長から退職が要求されている。このとき、倉田理事長が武田を問責したのは、武田が本件救済申立事件につき昭和五五年一二月一二日の審問で証言した内容等についてであった。倉田理事長の右退職要求の意思が強固であったため、参加人の執行委員長の中内と同書記長の真木徹志は、昭和五六年三月二九日、武田と一緒に原告の顧問の貞廣保雄を訪問して、武田の退職が避けられるよう尽力方を要請した。すると、貞廣は、「理事長は組合嫌いであるから、武田を解雇するつもりである。組合費を納めながらでも組合を二、三年脱退すれば、私が理事長を説得する。」などと述べた。このときは、結局、倉田理事長から要求されていた反省文の入った誓約書を武田が翌二七日に提出したことにより、解雇という事態は避けられたが、このときの事実関係からしても、倉田理事長が武田に対し前後四回にわたってした退職勧奨の真の意図は、武田が参加人の組合員であることを嫌って、同人を原告から排除しようとするところにあったことが明らかである。
4 本件命令主文第四項(掲示板設置要求に関する団体交渉の件)について
(一) 原告は、昭和五二年一〇月一五日及び昭和五三年五月九日の団体交渉において、参加人の掲示板設置要求につき、<1>校内に職員や生徒の目に触れないようなところはなく、したがって、掲示板を設置する適当な場所がないこと、<2>「学校が支配介入できない情宣活動の場を校内で認めた場合、教育者として、また、学校管理者として、無責任だというそしりを受けるおそれがある。」とのことを理由に、具体的協議に入るのを拒否したものである。
(二) しかし、右<1>の点については、校内に生徒の目に触れない場所がないというのは事実に反するものであり、右二回の団体交渉で参加人側が提案していた各場所は、掲示板を設置するについて適当な場所といえる。
また、右<2>の点については、仮に参加人が掲示板により正当な労働組合活動の域を逸脱する情宣活動をしたときは、原告がその掲示物の排除を求めるなどの方法でこれに介入できるのは当然のことである。
(三) したがって、右<1><2>の点は、掲示板設置要求について具体的協議に入ることを拒否する理由にはならないものであり、原告がこれを理由に右協議を拒否したことは、団体交渉において交渉事項について実質的な話し合いを行い、妥結に向けて誠実に努力すべき使用者の義務を果たさなかったものというほかはない。
第三証拠(略)
理由
一 請求原因1の事実は当事者間に争いがない。
二 そこで、本件命令の基礎となった事実関係について検討する。
1 本件救済申立事件の当事者等について
本件命令書の理由「第1 認定した事実」(以下「被告認定事実」という。)の1の各事実は、当事者間に争いがない。右事実に、(証拠略)を総合すると、次の事実を認めることができる。
(一) 原告は、昭和二六年三月一四日に設立された学校法人で、香川県丸亀市大手町一丁目六番一号に所在し、同所に香川県大手前高等学校及び同中学校(以下、この二校を「丸亀校」という。)を、また、高松市室新町一一六六番地に香川県大手前高松高等学校及び同中学校(以下、この二校を「高松校」という。)を、それぞれ設置している。
原告の沿革は、古く明治三九年ころできた裁縫学校にさかのぼるが、その後財団法人として香川県大手前高等学校を設置するようになっていた昭和二五年、これに中学校を併設した時点から、社会の指導者となるべき人材を養成するため、いわゆる中高一貫教育により、大学への進学を目標とした指導を行うことを基本方針とするようになり、前記のように学校法人となった後の昭和二八年、それまで家庭科のみであった香川県大手前高等学校に普通科を新設して以来、右基本方針の下で教育事業活動を行っており、丸亀校及び高松校は、香川県下では有数の進学校として知られるに至っている。
原告の理事長は、昭和四〇年五月から現在に至るまで倉田キヨエ(以下「倉田理事長」という。)であり、同人は、昭和四〇年から昭和五二年三月三一日までは丸亀校の校長でもあった。その後任として同年四月から丸亀校の校長になったのは、倉田理事長の女婿で、昭和四八年四月から高松校の副校長をしていた倉田康男(以下「倉田校長」という。)であった。なお、倉田校長は、昭和五二年四月に原告の理事となり、昭和五四年四月からは高松校の校長になっている。
(二) 参加人は、昭和五一年一〇月二日、丸亀校に勤務する教職員をもって結成された労働組合である。その代表者である執行委員長は、当初は星野人史(昭和五六年三月三一日限りで退職した。以下「星野前委員長」という。)であったが、昭和五四年六月一六日からは中内正嗣(以下「中内」という。)に交代して現在に至っている。なお、参加人は、その事務所の所在地を原告の所在地と同じところとしているが、原告は、これをやめるよう再々申し入れているほか、参加人あての郵便物が来ても、同所にはそのような団体はないとして、これを郵便局に返すという取扱いをしたこともあった。
(三) 丸亀校の教職員のうち参加人の結成を準備していた者は、昭和五一年一〇月二日(土曜日)午後二時ころ、丸亀校の職員室及び事務室内で、参加人の結成大会の案内書とその結成趣旨書を配布して、右大会への参加を呼びかけた。その後、右大会を終えた星野前委員長ほか四、五名の組合員は、同日午後六時ころ、丸亀校の理事長室兼校長室を訪れて倉田理事長に参加人の結成を通告した。すると、同理事長は、右二種類の文書の配布が原告の就業規則一四条一二号(その内容は、「書面による許可なく、当校内で業務外の掲示をし、若しくは図書又は印刷物などの頒布あるいは貼付をしないこと」を職員は遵守しなければならない、というものである。)に違反している旨を強い調子で指摘した上、就業規則はこういうときのために作っていたのである旨発言したほか、「組合を作ったのなら、組合員の名前、人数、規約等を言いなさい。」と何度も要求したり、「なぜ、結成大会に報道関係者を呼んで学校に不利益をこうむらせたのか。」と述べるなど、全体としてかなり立腹した状態での応対に終始した。
その日の晩、倉田理事長は、丸亀校の管理職員数名に電話をして、右の結成通告時の模様などを話したほか、同月一六日以降六、七回にわたり、参加人の行動に対する原告側の見解などを記載したマネージメントニュース(実物の標題は英文)を管理職員に配布するなどした。
なお、丸亀校の教職員数は例年六〇名程度で、そのうち教員は、非常勤の者を含めて約五〇名である。一方、参加人の組合員は、結成当日には一七名であったが、その翌日、右の一人であった北條英明教諭が、そのおじで、かつ、同教諭が原告に採用された際の紹介者でもあった藤本俊教諭(当時、丸亀校の中学二年の学年主任)の説得により脱退するなどのことがあったため、昭和五一年末には一四名ほどに減少した。
(四) そのほか、参加人の結成後昭和五一年度内には、次のような出来事があった。
(1) 参加人が結成された翌々日の昭和五一年一〇月四日、その組合員が倉田理事長に団体交渉の申入れをしたところ、同理事長は、参加人が公的機関への届出をしていないことを指摘し、そんな組合とは団体交渉できない旨述べた。参加人は、その後間もなく香川県の労政課で登録手続を済ませ、その旨を倉田理事長に伝えたが、今度は団体交渉のルールを決めるのが先決であるということになり、結局、参加人側が右に申入れをした事項(文具の支給や、専任の養護教諭を置くことの要望など計六項目)についての団体交渉が行われたのは、原告側の提案で同月六日から八日までの三日間にわたって右ルールを決める交渉がなされた後の同月一六日であった。
(2) 昭和五一年一一月一三日、第二回目の団体交渉が行われたが、その席上で倉田理事長は、「組合活動をするのは間違いである。」、「紛争を起こしたくないので、うちには組合は作らせない。」などと発言した。
なお、昭和五一年度以降を含め、原告と参加人が団体交渉で合意に達するということはほとんどなく、一つの議題について継続して団体交渉を行うことを参加人が求めても、原告が容易にはこれに応じないことがほとんどで、例えば、期末勤勉手当の問題で参加人がなお交渉することを求めている場合でも、原告がこれに応じないままその支給を実行するということがしばしばあった。
(3) 昭和五二年一月五日、倉田理事長は、参加人の結成当初からの組合員で、かつ、その執行委員として昭和五一年一〇月一六日の団体交渉に出席するなどしていた中原和男教諭に、退職を勧奨した。これは、同教諭(国語担当)が昭和五一年の夏休み期間中の課外授業で、いわゆる大閤検地に関する「むのたけじ」の文章を教材として使ったことが偏向教育にあたるということを理由とするものであったが、同教諭の右教材の使用は、当時国語科の主任を兼任していた堀井教頭が事前に了解していたことであった。倉田理事長は、更に、昭和五二年一月九日、中原教諭の父親を呼び出して同教諭の退職を勧めたが、このときは同教諭がよく倉田理事長と衝突するからというのがその理由であった。
(4) 倉田理事長は、昭和五二年三月八日の職員会議において、高松校との人事交流について言及し、運営上強制的に行ってもらうこともありうる旨述べていたところ、同月一八日ころ、参加人の組合員の大西義伸(社会科の教諭で、当時は世界史を担当していた。)に対し、高松校の方で生徒の増員のため世界史の先生が必要になりそうだとして、同校への転勤について意向を打診し、「もし、あんたが行かんのであれば、こっちはちょっと先生が要らんのじゃがな。」などと述べた。参加人は、大西教諭が転勤したくないという意向であることを確認した上で、この問題に取り組むことになったが、その後間もなく、大西教諭が転勤する必要はないことが判明し、この問題は一応解決した。その後の同月二九日、原告と参加人は、高松校との人事交流についての団体交渉をもったが、その席上で倉田理事長は、「大西先生を高松へやらなかったのは組合のエゴですよ。」、「すねに傷を持つ者のエゴですよ。」などと発言した。倉田理事長は、更に、参加人側が今後は高松校との人事交流について事前に参加人と協議してもらいたい旨要求したのに対し、「まずもって相談せよというのは越権行為ですよ。」と述べ、これに対し参加人側が、そういう考え方では摩擦が生じるばかりである旨反論すると、「生じないね。生じさせるのはあなた方ですよ。たとえ何かあったとしても服すべき問題です。組合の間違った考え方、得手勝手な考え方をいちいち聞いてたら教育はできませんよ。」などと述べた。ちなみに、倉田理事長は、参加人側が右の問題についての団体交渉の申入れをしたのに対し、「健康がすぐれないのに団交すれば死ぬかも知れない。」、「先代の校長は、以前あった組合のために寿命を縮めた。」と述べるなどした。
(5) 昭和五二年三月二三日、丸亀校の職員に対し昭和五一年度末の手当が支給されたが、星野前委員長に対しては、一般の支給率に対し二〇パーセント、額にして一万二〇〇〇円ほど低い手当が支給された。そこで、星野前委員長が、その後間もなく倉田理事長にその理由を聞きに行ったところ、同理事長は、「私の秘密です。答えられません。よく考えて反省の材料にしなさい。」と述べた。これに対し星野前委員長は、考えろと言われても分からない旨述べたが、倉田理事長は、「あなたは、本校の職員として不似合なことをしているんではないですか。」などと述べるのみで、結局、具体的理由は一切説明しなかった。なお、参加人は、昭和五二年四月五日と同年五月四日に、右の不利益取扱い問題を議題とする団体交渉の申入れをしたが、原告は、最初の申入れに対しては、予備折衝の段階で、勤務評定に関するので理由を公表する訳にはいかないとしてこれを拒否し、二回目の申入れに対しては、これに応じて同月一〇日に団体交渉をしたものの、右予備折衝のときと同じことを述べて、その具体的理由を明らかにしなかった。
以上のとおり認められる。(証拠略)中、右認定に反する部分は、自余の前掲各証拠に照らし、にわかに措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
2 本件命令主文第一項関係の事実について
被告認定事実2の各事実は、その(1)、(4)、(7)のうち、各配布行為がなされた時間帯の点と、各配布行為の方法として印刷面を内側にして二つ折りにする方法がとられていたとの点、(2)のうち、倉田校長が星野前委員長に対してした要求内容の点を除き、当事者間に争いがない。
右争いのない事実に、(証拠略)を総合すると、次の事実を認めることができる。
(一) 参加人は、その結成当初から、丸亀校の教職員に対する情宣活動として、職場ニュースと題する機関紙(ビラ)を配布することを計画していた。参加人は、その配布場所については、企業内組合である以上、校内で配布するのが当然であるという見解であったが、倉田理事長が労働組合を嫌っていることを考えると、結成直後から校内配布をして無用の混乱を起こすことは好ましくないとの判断から、結局、当分の間は校外で配布することに方針を決定した。
この方針に基づき、参加人は、その結成の翌々日である昭和五一年一〇月四日から同月二〇日ころまでの間、原則として、丸亀校の校門のうち教職員専用の出入口として使用されているものの外部で、職場ニュース(第一号から第一一号まで)を配布した。
(二) 右期間中において、当時の堀井教頭から、原告の許可を得た上で放課後(午後四時一五分以降)にするならば、校内で職場ニュースを配布してもよい旨の提案がなされたことがあった。参加人は、いったんはこれを拒否したものの、ちょうど原告が生徒募集をする時期になってきたことから、参加人が校門の外で職場ニュースを配布することにより、丸亀校内で何らかの紛争が生じているように誤解されて生徒募集に悪影響が及ぶのを避けるなどの理由から、右提案を受け入れることにした。
このような経緯で、参加人は、昭和五一年一〇月二八日から昭和五二年一月二五日ころまでの約三か月の間、原則として、原告の許可を得てから放課後に丸亀校の職員室内で職場ニュースを配布した。なお、右の許可を得た事例は、少なくとも六例である。
(三) 右期間中、参加人は、配布すべき職場ニュース自体を倉田理事長に提出して右の許可を得ていたところ、昭和五一年一一月二二日付けの職場ニュースが、その記事の内容に疑問があるとして、不許可になるということがあった(なお、右職場ニュースは、結局、配布されなかった。)。更に、これに関連して、倉田理事長が参加人に対し、今後また右のように不許可になって折角印刷したものが無駄になることがあっては気の毒であるとして、許可を求めるのなら職場ニュースとして印刷する前の原稿の段階で持って来るよう求めるということがあった。
参加人は、右の二つのことがあってから、参加人がその都度使用者たる原告の許可を得た上で機関紙を配布するというのは、労働組合としての自主性・主体性を損うものであると反省し、また、許可を得ていたのでは配布できるのがどうしても放課後になって速報性に欠けることや、そろそろ実質的な生徒募集は終わりつつあったことなどを考慮して、昭和五二年二月一六日からは、再び、原則として校門の外で職場ニュースを配布するようになった。
(四) その後、参加人は、昭和五二年三月一七日に開かれた団体交渉の席上で、職場ニュースの配布は参加人の最も基本的かつ重要な活動であるので、これを原告の許可なくして校内で配布することを認めてもらいたい旨主張したが、原告は、前記就業規則一四条一二号を根拠に、参加人が原告の許可なくして校内で右のような組合活動をすることは一切認めない旨述べて、これを拒否した。参加人は、同年一〇月一五日に開かれた団体交渉の席上でも右と同様の主張をし、更に、このときは、また生徒募集の時期になっていたので、校門の外での配布をすることによって生徒募集に悪影響を及ぼさないという意味からも是非右主張を受け入れてもらいたい旨要望したが、原告は、やはり右就業規則を根拠にしてこれを拒否した。
しかし、参加人は、同月二九日に開かれたその定期大会において、職場ニュースは就業に差しさわりのない限り職場内で配布するのが当然であるという基本的見解の下に、従来の経過をも踏まえて、できるだけ原告の許可を得ることなく校内で職場ニュースを配布するという方針をとることを決めた。これを受けて、参加人の執行部は、翌昭和五三年の春から右方針を実行に移す旨決定した。
なお、参加人は、前記1(四)(1)のとおり、その結成後間もなく原告との間で団体交渉のルールを決める交渉を行ったが、その最終日である昭和五一年一〇月八日、原告側から勤務時間中には組合活動をしないよう要望されたのを受けて、これを了承していたもので、職場ニュースの配布についても、就業時間中にこれを行おうという考えは一切有しておらず、実際にも、右(二)の期間中に原告の許可を受けて放課後に配布したことがあるのを除けば、就業時間中に職場ニュースを配布したことはなかった(なお、原告の平日の放課後は午後四時一五分以降となっており、丸亀校では、その内規により、放課後になれば特に用のない教員は終業時刻の午後五時一〇分にならなくても帰宅してよいとの取扱いが行われていた。)。また、参加人は、職場ニュースの記事の内容についても、教育関係者の職場であることを配慮して、不穏当な表現等をしないよう気をつけていた。
(五) 参加人は、右(三)で述べた昭和五二年二月一六日から昭和五三年三月まで校門の外で職場ニュースを配布した後、右(四)で述べた執行部の決定のとおり、同年五月から、原告の許可を得ることなく校内で職場ニュースを配布することにし、その第一回目として、同月八日、始業時刻(午前八時二五分)前の午前七時五五分から同八時五分までの間に、同日付けの職場ニュース(<証拠略>)を職員室内の各教員の机上に印刷面を内側に二つ折りにして置く方法で配布した。右職場ニュースの内容は、香川県下の数校の私立学校教員の昭和五三年度の本俸について、その妥結額や交渉状況等を記載した記事が主で、あとはその翌日に予定されていた原告と参加人の団体交渉の議題等が小さく書かれているというものであった。右職場ニュースの配布中にそれをめぐってトラブルが起こる等のことは一切なく、また、教職員が配布された右職場ニュースに気をとられ、あるいは、それが職員室内に散乱する等のことにより、始業時刻の午前八時二五分から職員室で開かれた職員朝礼に支障が生じる等のことも一切なかった(なお、この点は、後記(六)及び(七)における各職場ニュースの配布についても同じであった。)。
参加人の右配布行為に対し、倉田校長は、同日午後二時ころ、星野前委員長を校長室に呼んだ上、「組合は学校の中で私的なことをしてはならない。団体行動をしてはならない。」、「文書を配布するのは学校の規律を乱す。」、「配布した文書をすぐ回収して謝ってもらいたい。」などと述べて、右のような配布をしないよう注意した。
そこで、参加人は、倉田校長に抗議するため、まず、同日午後四時五五分ころに組合員三名が校長室を訪れたが、就業時間後にするよう求められたので退室し、次いで、同日午後五時一五分ころに組合員六、七名で校長室を訪れて、倉田校長が職場ニュースの配布を規制しようとした行為に対する抗議文(<証拠略>)を読みあげた。これに対し倉田校長は、「このように人を取り囲むような団体活動は懲戒処分にもできるものである。」などと述べて、組合員二名を残して退室することを求め、右組合員らがそのとおりにすると、残った二名の組合員に対し、「就業規則は遵守して欲しい。」、「就業規則に抵触するような組合活動は一切認めることはできない。」などと発言した。
(六) 参加人は、翌九日の午前八時から同八時五分までの間に、同日付けの職場ニュース(<証拠略>)を職員室内の各教員の机上に二つ折りにして置く方法で配布した。右職場ニュースは両面印刷のものであり、表面の記事としては、同日予定されていた団体交渉の議題等と、前日に参加人の組合員らが校長室で読みあげた前記抗議文を転載したものが中心で、裏面の記事は、右抗議文中に「不当労働行為」という言葉が出てくる関係上、それにはどんなものがあるかということを、労働組合法七条の各号を引用して説明したものであった。
その後、同日午前一一時ころ、倉田校長は、星野前委員長に対し、参加人が同日及び前日にした各職場ニュースの配布行為は就業規則一四条一二号に違反するので注意する旨の訓告書(<証拠略>)を交付した。
そこで、参加人は、同日午後五時二五分から開かれた団体交渉の席上で、右訓告書に対する抗議書(<証拠略>)を倉田校長に手渡すとともに、参加人が原告の許可なく校内で職場ニュースを配布するのを認めるよう求めたが、原告は従前と同様にこれを拒否した。
(七) その後、参加人は、同月一六日の午前八時から同八時一〇分までの間に、同日付けの職場ニュース(<証拠略>)を同月八日の場合と同様の方法で配布した。右職場ニュースは、右の同月九日に行われた団体交渉の結果を報告する内容のもので、各議題ごとに双方の主張の要点が記載されていた。
これに対し倉田校長は、同日、参加人の右職場ニュースの配布行為は就業規則一四条一二号に違反するので戒告する旨の戒告書(<証拠略>)を、内容証明郵便で星野前委員長の自宅へ送付した。
なお、以上のように丸亀校で訓告書や戒告書が出されたのは、倉田理事長が校長となった昭和四〇年以来初めてのことであった。
(八) 参加人は、右戒告書が出された段階で、その件及び前記訓告書の件を含む原告側の行為について、これを不当労働行為として被告に救済を求める申立てをする方針を決めたが、その提訴に踏み切る前にもう一度だけ参加人の職場ニュース配布問題について自主解決を試みることとし、同年六月一九日に開かれた団体交渉の席上で、右の訓告書及び戒告書の撤回要求という形で、その交渉をした。しかし、その席上、原告側からは、「校内での組合活動は一切否定する。」、「労組法よりも就業規則が憲法だ。」、「出るところへ出て第三者に判断してもらえば分かり切ったことだ。」などという趣旨の発言がなされるばかりであったため、右自主解決はできなかった。なお、右席上において、倉田校長が、「朝、これから仕事をしようとしているまともな先生が多い中で、このような新聞を配られると、やる気がくじかれる。」旨発言し、これを受けて倉田理事長が、「あなたたち、それがねらいなんだろう。」と発言するということがあった。
(九) 参加人は、右の昭和五三年五月一六日の配布に対して前記戒告書が出されてからは、それ以上重い懲戒処分がなされることのないよう、職場ニュースを校内で配布することを控えていたが(ちなみに、前記就業規則一四条一二号違反の場合に予定されている懲戒処分は、本来的には「懲戒解職」で、情状により「降職」又は「出勤停止」にとどめることがあるものとされている。)、同年七月七日に本件救済申立事件を被告に申し立ててから、再び、就業時間外に校内で原告の許可を得ることなく職場ニュースを配布し始めた(なお、その時間帯としては放課後になされた場合もあるが、それは、右事件についての原告の答弁書中に、右(五)の同年五月八日の配布に関し、倉田校長が星野前委員長に対し「職場ニュースの配布は教育の場である学校という性質上、放課後にするよう注意した」とか、「学園側は当初から教育上の配慮に基づいて放課後なら文書配布は認めると繰り返し主張しているのである。」とかの記載があり、かつ、その場合に前記就業規則所定の許可を要する旨の記載は一切なかったため、参加人が放課後なら右許可を要しない旨原告が主張しているものと考えた結果であった。)。参加人の右配布行為に対し、原告は、それが配布される都度、参加人の執行委員長・書記長に対し「警告書」を出していたが、昭和五六年一月ころからは、「訓告」、「戒告」、「厳告」と徐々に重い懲戒処分をするようになり、同年四月二八日に厳告処分をした際には、それが実害のない最後の処分である旨を通告するに至った。
その後、昭和五七年六月二五日付けで本件命令が出されたが、原告は、参加人がその後の同年一〇月一二日、午前七時一〇分ころから同一五分ころまでの間に職員室内で職場ニュースを配布したことを理由に、執行委員長の中内と書記長の北里泰俊(以下「北里」という。)に対し、減給処分をした。これに対し参加人は、右処分が不当労働行為であるとして被告に救済を申し立て(香労委昭和五七年(不)第八号不当労働行為救済申立事件)、被告は昭和五九年一月二七日付けの命令書で救済命令を発したが、原告はこれを不服として、その取消訴訟(当庁昭和五九年(行ウ)第一号不当労働行為救済命令取消請求事件)を提起している。このようなことがあるため、参加人は、現在は校門の外で職場ニュースを配布している。
以上のとおり認められる。(証拠略)中、右認定に反する部分は、自余の前掲各証拠に照らし、にわかに措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
3 本件命令主文第二項関係の事実について
被告認定事実3の(1)、(2)、(4)、(6)、(7)、(9)及び(10)の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。右事実に、(証拠略)を総合すると、次の事実を認めることができる。
(一) 中内は、昭和四七年四月一日、教諭として原告に採用され、数学の授業を担当するようになった。中内は、その後、昭和四九年度から昭和五一年度まで、順次、高校一年ないし三年の学級担任に任命され、翌五二年度には、昭和五一年度の中学一年二組の学級担任で同年度末限りで原告を退職した有間京子教諭の後任として、中学二年の学級担任になった。
一方、中内は、昭和五一年一〇月二日に結成された参加人に当初から加入していたところ、翌五二年四月ころにその執行委員になり、同年一一月一六日から翌五三年三月七日までの間に計四回開かれた原告との団体交渉に毎回交渉委員として出席するなどしていた。
中内は、昭和五三年度には、当然、中学三年の学級担任に任命されるものと予期していたところ、同年四月三日に配布された校務分掌表の学級担任の欄に自己の名がなかったため、学級担任をはずされたことを知った。
(二)(1) 丸亀校における学級担任の選任は、毎年度末に、副校長や教頭などのメンバーで原案を作成し、これを教科主任、学年主任及び各課主任で構成する主任会に諮った上で、校長が決定することになっている。
(2) 丸亀校における昭和四一年度から昭和五〇年度までの学級(ただし、同校の高等学校の方に昭和四八年度まで設けられていた女子学級を除く。)の総数は一七二で、この間に学級担任であった教員の総数も一七二名であるところ、このうち学級担任をしていた当該年度末までに退職したことが間違いのない九名を除く一六三名中、その翌年度に学級担任にならなかった者が二七名いるが、そのうち一六名までは中学三年又は高校三年の学級担任をしていた者であり、これ以外の学年の学級担任であった者(総数一一四名)のうち翌年度に学級担任にならなかった者は、一一名にすぎなかった。なお、翌年度にも担任となった者(右一六三名中の一三六名)のうち当該年度に高校三年の担任であった一五名を除いた一二一名中一一〇名までは、一学年上の担任になった者である。
(3) 昭和四〇年度から昭和五〇年度までにおいて丸亀校の中学二年の学級担任であった者の総数は二六名であるが、そのうち当該年度末限りで退職した一名を除く二五名中、翌年度に学級担任にならなかった者は三名にすぎず、これを除く二二名のうち一九名までは、中学三年の学級担任になっている。
なお、右二五名のその前後の担任状況をみると、結局、<1>中学一年から同二年に担任を持ちあがっていた者は一六名であるところ、そのうち中学三年に持ちあがらなかったのは三名だけで、他の一三名は中学三年以上に持ちあがっており、<2>前年度に中学一年の担任をすることなく中学二年の担任になっていたのは九名であるが、そのうち中学三年に持ちあがらなかったのは三名だけであり、他の六名は中学三年以上に持ちあがっている(ちなみに、右<1>の一三名の内訳は、(1)中学三年までが二名、(2)高校一年までが二名、(3)高校二年までが一名、(4)高校三年までが八名であり、<2>の六名の内訳は、(5)中学三年までが二名、(6)高校三年までが四名となっている。しかして、右(3)の一名と(2)の二名中の一名は、その学年まで持ちあがった年度末限りで退職した者であり、(2)の二名中のもう一名は、次の(三)の(1)で述べる中原和男教諭である。)。そして、昭和四一年度から昭和五一年度までの間に中学三年の担任であった者の総数は二六名であるが、以上から明らかなとおり、そのうち一九名は中学二年以前から持ちあがってきた者であり、これを除く七名中、その翌年度以降に高校三年まで持ちあがった者は三名である(他の四名の内訳は、当該年度末限りで退職した者が一名、翌年度に担任にならなかった者が一名、高校一年以外の学年の担任になった者が二名である。)。更に、昭和四二年度から昭和五二年度までの間に高校一年の担任であった者の総数は四二名であるが、以上から明らかなとおり、このうち一八名は中学三年以前から持ちあがってきた者であり、これを除く二四名中、二三名までが翌年度にも学級担任になっており、うち一八名は高校三年まで持ちあがっている。
(4) 右(2)、(3)のように、丸亀校における学級担任は、従来から、いわゆる持ちあがりを原則とする形で決定されてきたものであり、中学一、二年又は高校一、二年の学級担任であった者が、その翌年度には学級担任に任命されないというのは、異例のことであった。
(三) ところが、昭和五一年一〇月二日に参加人が結成された直後の昭和五二、五三年度において、次のとおり、異例に属する学級担任の任命が相次いで行われた。
(1) 昭和五一年度の全学級数は二二(そのうち、中学三年又は高校三年以外の学級数は一四)で、学級担任であった教員も二二名であったところ、そのうち一八名が翌五二年度にも学級担任になったが、これを任命されなかった四名のうち二名までが中学三年又は高校三年以外の学級担任をしていた者であった。
すなわち、右四名のうちの一名は、昭和五一年度に高校三年の学級担任であった藤高邦宏教諭で、もう一名は、右(一)のとおり、同年度末限りで退職した有間京子教諭(なお、同教諭は、参加人の組合員であった者の一人である。)であったが、残る二名は、昭和四九、五〇年度にそれぞれ高校一年、中学一年の学級担任をし、昭和五一年度には中学二年の学級担任をしていた浜近仁史教諭と、昭和四八年度から昭和五〇年度まで順次中学一年ないし三年の学級担任をし、昭和五一年度には高校一年の学級担任をしていた中原和男教諭であった。
浜近教諭と中原教諭は、参加人の結成当初からの組合員で、かつ、当時は香川県私立学校教職員組合連合の執行委員であったほか、中原教諭は、当時参加人の執行委員でもあった(なお、中原教諭について、昭和五二年一月五日及び同月九日に退職勧奨があったことは、前記1(四)(3)のとおりであり、同教諭は、結局、その後も担任に復帰しないまま、昭和五五年度末限りで原告を退職した。)。
そして、浜近教諭に代わって昭和五二年度の中学三年の学級担任になったのは、同年度に中学三年の学年主任(前年度には中学二年の学年主任)を務めた藤本俊教諭であり、中原教諭に代わって昭和五二年度の高校二年の学級担任になったのは、遅くとも昭和四五年度から英語科主任を務めるなどしていた小野明教諭と小野真澄教諭(共同担任制)であった。
(2) 昭和五二年の学級数は二二(そのうち、中学三年又は高校三年以外の学級数は一六)で、学級担任であった教員は、右の共同担任制の二名を含めて二三名であったところ、このうち二一名までが翌五三年度にも学級担任となり、これを任命されなかったのは二名だけであったが、この二名も、中学三年又は高校三年以外の学級担任をしていた者であり、かつ、参加人の組合員であった。
すなわち、そのうちの一名が中内であり、同人は、右(一)のとおり、昭和五二年度には中学二年の学級担任であるとともに、当時は参加人の執行委員であった。もう一名は、昭和五一年度には中学一年の学級担任をし、翌五二年度には中学二年の学級担任をしていた北里で、同人は、当時参加人の結成当初からの書記長であった。
なお、右両名に代わって昭和五三年度の中学三年の担任になったのは、北條英明教諭と小林範夫教諭であった。
(3) そのほか、昭和五三年度においては、参加人の結成当初からの副執行委員長で、昭和四八年度から昭和五二年度まで、順次、高校一年ないし同三年、同一年及び同二年の学級担任をしていた入江紀文教諭と、当時の参加人の監査委員で、昭和四九年度から昭和五二年度まで、順次、中学一年ないし高校一年の学級担任をしていた宮岡邑治教諭が、共同担任制での学級担任とされるということがあった。
すなわち、昭和五三年度において、入江教諭は、国語科主任と高校三年の学年主任をも兼任する堀井教頭とともに高校三年一組の学級担任となり、宮岡教諭は、理科主任と高校二年の学年主任を兼任する鴨田教諭とともに高校二年四組の学級担任となった。
この共同担任制は、右(1)、(2)と右(二)の(2)で述べた昭和四一年度から昭和五二年度までの合計二一六学級中、前記小野明・小野真澄教諭が昭和五二年度に担任した一学級の事例があったにすぎない極めて異例なもので、昭和五三年度においても、二三学級中、右両教諭が前年度にひき続いて担任した一学級を含め三学級に設置されていただけであった。
(四)(1) 右(三)のとおり、昭和五二、五三年度において、それぞれその前年度に学級担任をしていて、かつ、その翌年度にも在職していながら学級担任を更新されなかったのは、四四名中五名だけで、そのうち中学三年の学級担任であった一名を除く四名は、いずれも参加人の組合員であった。他方、昭和五二、五三年度において、それぞれその前年度に学級担任をしていないで新たに学級担任となった教員数は、共同担任制のそれを含めて五名ずつの計一〇名であるが、これらの者は、いずれも参加人の組合員でない者であった。
(2) その結果、参加人の組合員で学級担任をしている者の数は、昭和五一年度末の時点では二二学級中一一名いたのに、翌五二年度には二二学級中八名に、更に、翌五三年度には二三学級中六名(しかも、うち二名は共同担任制の担任)に減少した。一方、各種主任を務めながら学級担任をしている者の数は、昭和四七年度から昭和五一年度までは、それぞれ四名、一名、三名、二名及び三名であったのに、昭和五二、五三年度には、それぞれ五名及び八名に増加している。
(五) 右(三)の(2)及び(3)のようなことがあったため、参加人は、昭和五三年五月九日に開かれた団体交渉の席上で、組合員であるゆえをもって学級担任をはずさないよう抗議したところ、原告側は、そのような理由で担任をはずしたのではない旨述べた。そこで、参加人側は、中内らが担任をはずされた具体的理由の説明を求めたが、原告側は、これを一切明らかにしなかった。
中内と北里は、右席上で倉田校長から、その理由を聞きたければ個人として尋ねに来るようにと言われたため、翌一〇日に校長室を訪れてこれを尋ねたが、同校長は、「中学二年が切れ目である。」と言うのみで、右両名が担任をはずされることになった具体的理由は一切説明しなかった。
(六) その後、本件救済申立事件の中で、中内が担任からはずされた理由について原告側が主張するなどした経過は、次のとおりである。
(1) まず、右事件の答弁書には、「組合員であることを理由としたものでは決してなく、日常の教育活動を観察して、担任として適任かどうかという判断によったものである。」旨記載されていた。
(2) 次に、昭和五四年五月二五日の審問において、証人となった中内に対する原告側の反対尋問の中で、その他の点(例えば、中内が昭和五一年度に高校三年の学級担任であったときに当該クラスの生徒の国立大学への進学率が悪かったのではないか、というような点など)とともに、中内が学級担任をしていた昭和四九年度から昭和五二年度までの間に中内が担当した数学の授業の進度が遅く、その点について注意を受けていたのではないか、ということが指摘された。
(3) 次いで、昭和五四年八月二七日及び同年一〇月三〇日の審問において、昭和五一年度から丸亀校の副校長をしていた寺嶋正昭が原告側の証人として出頭し、個人的意見であるとしながらも、学級担任のサイクル制(中学一、二年の二年間のそれを含む。)の観点、最適任の担任を選任するという観点及び人材登用の観点という一般的な三つの観点を考慮したほか、昭和五二年度の中学二年生の英語力が芳しくなかったので、英語担当の小林英明教諭を昭和五三年度の中学三年の学級担任とした結果、中内が担任からはずれることになった、という趣旨の証言をした。なお、その証言においては、数学の授業進度の点については一切触れられなかった。
(4) 最後に、昭和五四年一二月一四日以降四回にわたる審問期日に倉田校長が証人として立ち、中内が昭和五二年度に中学二年の各クラスに教えていた数学の授業の進度が著しく遅れていたので、その進度を回復するためにどうしても中内を担任からはずさざるをえなかったものであり、これは、昭和五三年度の学級担任の選任に関する主任会の席上で、右のようなことが議論された上で出された結論でもあった、という趣旨の証言をした。
(七) ところで、中内は、前記のとおり、昭和五一年度には高校三年の学級担任であったが、それとともに中学一年の各クラスに数学(代数部門)を教えていた。ところが、その授業の進度は、数学科の基準によれば、二学期終了時までに代数部門に関する中学一年の教科書を終わらせなければならないのに、三学期終了時になってもこれが終わっていなかったというように、相当遅れていた。
中内は、翌五二年度には、中学二年の学級担任になるとともに、右にひき続き中学二年の数学(代数部門)の授業を担当し、通常の週四時間より一時間多い週五時間の授業をしたが、数学科の基準では一学期終了時までに代数部門に関する中学二年の教科書を終わらせなければならないのに、三学期半ばになってようやくこれが終わるというように、その授業進度はかなり遅れていた。
しかし、丸亀校の数学科では、各授業担当者が各学期ごとに、その当初に立てた授業進度の予定と実際の結果を記した進度表を作成し、数学科主任を通じて校長に提出して検認を受けることになっていたところ、中内の以上のような授業進度は、中内が進度表に記載していた当初の予定とほぼ同じであったもので(中内は、数学という科目の性格上、中学一、二年のうちの基礎固めが特に重要であると考えていたところから、右のような進度にしたものであった。)、それが数学科の基準より遅れているということを、昭和五一年度に丸亀校の校長であった倉田理事長や、翌五二年度に校長となった倉田校長、あるいは、右両年度の数学科主任でもあり、かつ、昭和五二年度には中内とともに中学二年の数学(幾何部門)の授業を担当した寺嶋副校長が、その両年度内に中内に対して注意をしたということは全くなかった。もっとも、寺嶋副校長は、年に数回開かれる数学科の会の席上で、授業進度が遅れている者は遅れを取り戻すようにとの発言をしていたが、それはあくまでも一般的な注意で、特に中内の名を挙げて右のような発言をするなどのことは全くなかった。
なお、中内に代わって昭和五三年度の中学三年の数学(代数部門)の授業を担当するようになったのは、同年度に丸亀校に赴任した岡教諭であり、一方、同年度に学級担任でなくなった中内は、高校一年や中学二年の数学の授業を担当した。
(八) 本件救済申立事件の申立てがされた後、北里は昭和五四年度に共同担任制ながら高校二年の学級担任となり、翌五五年度には単独で高校三年の担任になるなどしている。また、前記入江教諭は、昭和五四年度に単独での学級担任に復帰し、同年度から昭和五六年度まで順次高校一年ないし三年の担任をするなどしており、前記宮岡教諭も、昭和五五年度に単独での学級担任に復帰し、同年度から昭和六〇年度まで順次中学一年ないし高校三年の担任をするなどしている。更に、昭和五二年度に学級担任からはずれた前記浜近教諭も、昭和五四年度に学級担任に復帰し、同年度から昭和五九年度まで順次中学一年ないし高校三年の担任をするなどしている。
これらの結果、参加人の組合員で、昭和五三年度から現在に至るまで学級担任に任命されていないのは、前記1(二)のとおり、昭和五四年六月一六日から現在まで参加人の執行委員長をしている中内と、本件で退職勧奨が問題となっている武田博雅(以下「武田」という。)の二人だけとなっている。
以上のとおり認められる。(人証略)中、右認定に反する部分は、(証拠略)に照らして措信することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
4 本件命令主文第三項関係の事実について
被告認定事実4の事実は、その(1)のうち、倉田理事長が武田に対し、「わずか十二、三名の組合に入るとは思わなかった。」と述べたとの点を除き、当事者間に争いがない。
右争いのない事実に、(証拠略)を総合すると、次の事実を認めることができる。
(一) 武田は、昭和四二年三月に早稲田大学第一文学部哲学科を卒業したが、当時病気であった母親の看病等のため就職の機会を逸し、その後、建築屋の手伝いを約四年、家庭教師や果樹園の手伝いを約二年した後の昭和四八年ころ、教師となるべく玉川大学の三年に編入し、以後その通信制を受講して教職過程の単位を取得しつつあったところ、その伯父の近藤が、かつて丸亀校の教頭をしていた上原某と高等師範学校の同窓生であったところから、そのつてで、昭和五〇年四月一日、社会科の教諭として原告に採用された。
武田は、右採用の際、通常ならば実施される試験を受けることなく、倉田理事長の面接だけで採用されたが、同理事長がこのようなことをしたのには、当時国立新居浜高専の教授をしていた近藤が、武田の人柄を保証して強く推薦したことが大きな影響を及ぼしていた。
なお、倉田理事長は、近藤から、武田の早稲田大学卒業時から右採用当時までの八年間の生活について、主として山にこもって修業をしていたように聞いていた。
(二) 武田は、昭和五二年一月二〇日午後二時すぎころ、倉田理事長から呼ばれて理事長室へ行ったところ、その用件は、住宅手当を出すようにすることを検討中であるので組合員の住宅事情を聞きたいとのことであった(武田は、参加人の結成と同時にその組合員となっていたもので、倉田理事長は、そのことを参加人の結成後間もなく知るに至っていた。)。
武田は、倉田理事長から、参加人の組合員で借家に住んでいるのは誰かということを尋ねられたので、順次、浜近教諭、宮岡教諭、中内、岡田教諭の名を挙げていったところ、倉田理事長は、「岡田先生は組合に入っていないでしょう。」と述べた(なお、同理事長は、同日、武田とは別にではあったが、やはり住宅手当の関係で岡田教諭を理事長室に呼んでいた。)。そこで、武田は、以後組合員の名を挙げるのをやめ、すでに挙げていた浜近教諭などの住宅事情を説明した上で、健康に住めるよう何とかして欲しいと待遇改善方を要望した。すると、倉田理事長は、ひどく立腹した様子で、「あなたも組合と同じ考えか。」と述べ、武田がこれを肯定すると、「わずか十二、三名の組合に入るとは思わなかった。近藤先生や上原先生を信じていたのに。」などと言った上、「経済的豊かさを求めるのであれば、田舎へ帰った方がよい。」旨述べて武田に退職するよう求めた。
なお、武田が同日までに、生徒に対し、自己の月給が七万円である旨を述べたり、原告の教育方針に賛成できない旨を表明したというようなことはなく、同日、武田が倉田理事長から右のような事実について注意されるなどのことも全くなかった。
(三) 右(二)の退職勧奨があってから約五か月後の昭和五二年六月ころ、武田が高校一年一組の生徒から学級新聞の記事にするためのインタビューを受け、その質問中「学校について」の感想を聞かれたのに対し、「方針が少し合わない」、「勉強第一主義には反対」という趣旨の答えをし、それがそのまま学級新聞(同月三〇日発行予定)の記事として印刷されるということがあった。もっとも、その学級新聞は、印刷後配布直前の段階で倉田校長の目にとまり、同校長が右の武田のインタビュー記事を問題としたため、生徒に配付されるには至らず、生徒には、右インタビュー記事の部分が「学校について……知性、健康、徳性を養う重要な場」と訂正されたものが配付された。右の訂正は、武田が倉田校長の同意を得た上でしたものであったが、その際、武田が同校長に対し、訂正前のインタビュー記事の内容について釈明するなどのことはなく、一方、そのころに倉田校長や倉田理事長の方から、武田に対し、どうして「方針が少し合わない」というような発言をしたのか問いただすということもなかった。
その後間もなく、倉田理事長は、愛媛県西条市在住の近藤にハガキを出して丸亀校まで出向いて来るよう求めた。そこで、近藤が同年七月八日に丸亀校を訪れたところ、倉田理事長は、近藤に対し、右インタビュー記事のことに触れた上、武田は原告の建学の精神に反する考えを有しているようであるので、そうであれば、ほかの学校に替った方が本人のためにもよい旨述べて、武田の就職先をその郷里である愛媛県の方で探すよう話した。近藤は、武田の原告における勤務に関する保証人でもあったところ、倉田理事長の右の話を了承し、極力就職先を探してみる旨同理事長に約束するとともに、その後、武田に対し、同理事長から言われたことを告げ、「替ってはどうか。」と言った。
なお、近藤が右の倉田理事長との会談の際に同理事長から聞かされたのは、右のようなことだけで、武田が生徒に対し、自己の月給が七万円であると言ったり、原告の教育方針に賛成できない旨を表明したことがあるというようなことは、全く話題にならなかった。
(四) ちなみに、本件救済申立事件の申立てがされた後において、次のとおり、二回にわたり武田が倉田理事長から退職を勧奨されるということがあった。
(1) その第一回目は昭和五五年七月一六日のことで、その経過は次のとおりであった。
倉田理事長は、まず、武田の早稲田大学卒業時からの八年の生活につき、近藤から山で修業をしていたように聞いていたことに関し、その真偽を確かめたところ、武田が右(一)記載のような経緯を述べたので、経歴の詐称というべきである旨述べた。
次いで、倉田理事長は、武田が参加人の同年四月八日付け職場ニュース(<証拠略>)に書いた高松校の海野教諭の解雇問題に関する記事中に、「……理事長による私の伯父呼び出し事件があったわけです。……病床にあった私の父は、この事件で非常に苦しみ、その年の暮れに死にました。」という記載がなされていたことに関し、「おじさんを私が呼んだのが父親の死因だと書いていたが、あれはどういう意味なのですか。」と武田に尋ねるなどした。
次に、倉田理事長は、武田が生徒に対し自己の月給が七万円である旨などを述べていたということに言及し、武田がそのような発言をしたことはない旨述べたのに対し、そういう事実があったことを生徒から聞いているので生徒の方を信用する旨述べるなどした。
最後に、倉田理事長は、右(二)の近藤との会談後の昭和五三年三月二一日ころ、近藤から、軽卒にも進学一筋の校是に背くような発言をしたことを武田が深く反省している旨などを書いた手紙が来ていたことに関し、近藤に今後学校の教育方針が自分に合わないなどと言わない旨の約束をしたかどうかを尋ねた。武田は、近藤との間でそのようなことが話題になったことはなかったので、そのような約束はしていない旨答えたところ、倉田理事長は、右の手紙の文面が近藤の一存でなされたことであるなら話は元に戻す旨述べた上、「自分の気の合う学校に替るべきです。」、「明日でも今日でもおじさんのところに行きなさい。転任の運動をしなさい。」などと述べて、武田に退職するよう求めた。
(2) その第二回目は昭和五六年三月一九日のことで、この日、倉田理事長は、武田に対し「考えが変わってないから替れ。今までに猶予期間があったはずだ。」という意味の発言をして武田の退職を要求し、武田が「替るつもりはない。」旨答えると、「ただでは済ませない。」旨述べるなどした。同日、参加人の組合員が右の件で倉田理事長に抗議に行くと、同理事長は、武田が反省文の入った誓約書を提出することを求めた。
武田は、同月二四日、誓約書を書かないで済むよう倉田理事長に頼みに行ったが、書かないのであれば荷物をまとめるよう言われたため、同日中に二回にわたり誓約書を提出したが、いずれも書き方がよくないことを理由に同理事長に受け取ってもらえなかった。
同月二六日、参加人の執行委員長の中内と同書記長の真木徹志が、武田とともに原告の顧問の貞廣保雄方を訪れて、武田が退職しないですむよう尽力方を要請したところ、貞廣顧問は、「理事長は組合嫌いであるから、組合費を納めながらでも組合を二、三年脱退するように。それと、反省文の入った誓約書を出すように。」などと述べた。
武田は、翌二七日、倉田理事長に三度目の誓約書を提出したところ、同理事長は、「一応預っておく。」旨述べてこれを受け取り、武田に対する退職要求を一応撤回した。
以上のとおり認められる。(証拠略)中、右認定中に反する部分は、自余の前掲各証拠に照らし、いずれもにわかに措信することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
5 本件命令主文第四項関係の事実について
被告認定事実5の(2)の各事実は当事者間に争いがなく、右事実に、(証拠略)を総合すると、次の事実を認めることができる。
(一) 前記2の(四)のとおり、原告と参加人は、昭和五二年一〇月一五日に団体交渉をもったが、その議題の一つは、「組合活動の自由の保障について」というものであった。その席上で星野前委員長は、右議題に関連して、参加人の組合掲示板を、喫茶室や湯飲み場などの生徒があまり出入りしない場所に設置させてもらいたい旨要求した。しかし、倉田校長は、これに対し直ちに、「教育現場であるという性格上、一切認める気持ちはない。」旨回答した。そうして、右問題をめぐる議論は、参加人側が、参加人の丸亀校内での組合活動につき原告が団体交渉以外は認めないという立場をとっているのを改めて、組合掲示板による情宣活動を行うことくらいは認めてもらいたいということを基本とする種々の発言をするのに対し、原告側が、「参加人の組合員も原告の職員である以上、校内では教育活動に専念してもらいたいので、校内では組合活動をしないという気持ちで参加人を運営してもらいたい。」旨述べるなどして、参加人側の右発言に反論するという形で推移したが、その中で原告側は、掲示板の設置自体に関連する発言として、<1>校内で生徒の目に触れないところはおよそないこと、<2>参加人の主体性を尊重する立場からも便宜供与はできないこと、<3>掲示板の設置を許した場合、どのような掲示がなされるか分からず、原告がこれに支配介入できないので、これを許すということに踏み切れないことの三点を述べて、参加人の掲示板設置要求を拒否し、結局、この問題は、具体的協議に入らないまま短時間で交渉が打ち切られた。
ちなみに、同日の団体交渉では、同年九月から倉田校長の発案で行われることになった小六セミナー(生徒募集の効果を高めるため、小学校六年生を対象に毎日曜日に丸亀校の施設を利用して行う特別教育活動)に関する交渉も行われたが、その際、倉田校長が「労働基準法がどうのこうの言う者は私学の発展に役立たない。」旨発言するということがあった。
(二) その後、昭和五三年一月ころ、高松校の方で教職員組合の掲示板の設置が認められるようになったので、参加人は、同年五月九日に開かれた団体交渉の席上で、再び、組合掲示板を喫煙室、湯沸室、更衣室、事務室、体育教官室、理科教官室などの生徒があまり出入りしない場所に設置させてもらいたい旨要求した。
しかし、原告は、まず倉田校長が「一切認めるつもりはない。」旨回答した上、一般論として、「校内では教育に専念してもらいたい。」、「学校の中で組合掲示板を置いたりするような組合活動は一切否定する。」などという発言をしたほか、掲示板の設置問題自体については、<1>「学校の中で、組合員以外の職員や生徒の目に触れないような場所はない。」、<2>「すべての学校施設は教育のためのものであり、これを組合活動のために提供することは便宜供与になるから一切提供しない。その方が、組合が学校に支配されるようなことにならないので、組合のためにもよい。」、<3>「仮に設置を認めた場合、学校はそれに支配介入できないので、学校の中に治外法権を作ることになる。そのような情宣活動の場を校内で認めることは、教育者としての良心、学校管理者としての責任からしてできることではない。」と、ほぼ前回と同趣旨の発言をして、参加人の掲示板設置要求を拒否し、結局、この問題は、具体的事項の協議に入らないまま一時間足らずで交渉が打ち切られた。
なお、その席上で、参加人側が、原告も団体交渉を丸亀校内で行うことにより参加人が校内で活動することを認めているのであるから、これを一歩進めて、参加人が組合掲示板による情宣活動をすることも認めてもらいたい旨発言したのに対し、倉田理事長は、「団交しなければならないという法律があるから団交するんであってね、私達はそういうような法律によっていやでもしなきゃならないものなら、がまんもしますよ。けれども、掲示板なんていうのは、これはあなたの方でこしらえなさい。貼りなさい。」と発言した。
以上のとおり認められる。成立に争いのない乙第二号証の一一(被告における本件救済申立事件の審問調書)の供述記載中、右認定に反する部分は、前掲各証拠に照らして措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
三 以上に認定した事実に基づいて、本件命令の適否を判断する。
1 本件命令主文第一項について
(一) 参加人が昭和五三年五月八日、翌九日及び同月一六日に、原告の許可を得ることなく丸亀校の職員室内で右各日付けの職場ニュースを配布したことは、形式的には、原告の就業規則一四条一二号に違反するものであることが明らかである。
(二) ところで、本件無許可ビラ配布は、原告の企業施設内で参加人の情宣活動の一環としてなされたものであるので、企業の物的施設を利用して行う組合活動が許容される限界につき、検討するに、労働組合による企業の物的施設の利用は、本来、使用者との団体交渉などによる合意に基づいて行われるべきものであり、利用の必要性が大きいことのゆえに、労働組合又はその組合員が企業の物的施設を組合活動のために利用し得る権限を取得し、また、使用者において労働組合又はその組合員の組合活動のためにする企業の物的施設の利用を受忍しなければならない義務を負うとすべき理由はない。もっとも、使用者が労働組合に企業施設内で特定の組合活動を許容しても、それによって業務阻害その他使用者の企業活動に特段の支障が生じないにもかかわらず、組合活動を制約する目的でそれを許可しないような場合などにおいては、その施設管理権の行使は、権利の濫用として許されないものというべきである。
そこで、本件についてこれをみることにする。
(1) 前記二2(五)ないし(七)認定の事実によれば、本件ビラ配布は、始業時刻の一五分ないし二〇分前までの五分ないし一〇分間に、各職場ニュースを二つ折りにして(それが片面印刷であった二回分については、印刷面を内側にして)、各教員(約五〇各)の机上に置くという方法でなされたものであって、その配布中にそれをめぐってトラブルが生じたり、それが配布されたことにより始業時刻から職員室内で行われた職員朝礼に支障を生じるなどのことはなかった。また、右各職場ニュースの内容にも特に問題とすべきような点は見あたらず、その内容自体などからみて、右配布は、参加人が組合員の団結を擁護し、その経済的地位の向上をはかるなどの労働組合として正当な目的による情宣活動の一環としてなされたものであることが明らかであった。以上のような各職場ニュースの配布の態様(時間・枚数など)及び目的並びに内容に照らすと、本件ビラ配布は、それによって業務阻害その他原告の企業活動に特段の支障を生じさせるものではなかったと考えられる。
もっとも、職員室の教員の机上に配布された職場ニュースが、早目に登校して職員室を訪れる生徒の目にとまることがありうることは容易に推認される。しかし、生徒がそれを手に取って読むことは考え難いし、そうしたことがあったとしても、その内容に生徒の教育上問題となるものがなかったことは前記のとおりであるから、右の点は、前記判断を左右するものとは解されない。また、出勤してきた職員のなかには机上に配布された職場ニュースを始業時刻後に読む者がいないとは限らず、それによる原告の業務の阻害が多少生じることが考えられないではないけれども、この点は、参加人が原告の企業施設外で配布を行った場合でも同様であるから、それが前記判断の妨げとなると解されない。
(2) 右(1)の点に、前記二2(一)ないし(四)認定の本件ビラ配布に至るまでの経緯(参加人は、その最も重要な活動として、機関紙たる職場ニュースを丸亀校の教職員に配布するということを結成当初から行い、一時期は、前記就業規則所定の許可を得てから配布するという方法をとったものの、記事内容の点から不許可になったり、原稿の段階で持って来るよう要求されたりしたことから、右のように記事内容について原告の検閲を受けることは労働組合としての自主性・主体性を損うものであるとして、これをやめるとともに、原告に対し、参加人が右許可を得ることなく校内で職場ニュースを配布するのを認めるよう要求したが、原告は、右就業規則の存在自体を根拠に右要求を拒否し、参加人が校内で職場ニュースの配布をするには右のような許可が必要であるとの立場をとり続けていたものであること)を総合考慮すると、本件ビラ配布については、原告がこれを許容しないのは原告の施設について有する権利の濫用に当たるものと解するのが相当であり、したがって、参加人の右行為は、正当な組合活動であるというべきである。
なお、以上の諸点に、<1>参加人の職場ニュース配布問題自体についてではないが、前記二5(一)認定のとおり、原告は、昭和五二年一〇月一五日の団体交渉の席上において、参加人の組合掲示板設置要求に関し、参加人側に対して校内では組合活動をしないという気持ちで参加人を運営してもらいたい旨述べていたこと、<2>そのほか、前記二1(四)(5)認定のとおり、原告が星野前委員長に対し昭和五一年度末の手当の関係で不利益な取扱いを行い、あるいは、前記二3認定のとおり、昭和五二、五三年度の学級担任の決定において、参加人の組合員六名を学級担任からはずしたり、異例の共同担任制における担任とするなどの措置をとり、これらについてその具体的理由を一切明らかにしようとしなかったことをはじめとして、前記二中で認定した参加人の結成以降の原告の労働組合ないし労働運動嫌いを示す言動を総合すれば、原告が本件無許可ビラ配布を理由に星野前委員長に対し訓・戒告の懲戒処分をしたのは、本件ビラ配布によって原告の施設管理に特段の支障が生じないにもかかわらず、参加人組合執行委員長に対し懲戒処分をすることにより、参加人がその職場ニュースを校内で配布する場合に前記のような形での原告の許可を求めるようになることを期待し、その際記事を検閲することによって参加人の職場ニュース配布活動を制約する目的でなされたものと優に推認することができる。
(3) そうすると、原告が右の懲戒処分をしたことが正当な組合活動を理由とする不利益取扱いであるとともに参加人に対する支配介入にあたるものとして原告に対し右処分の撤回を命じた本件命令主文第一項は相当であるから、その取消を求める原告の請求は理由がない。
2 本件命令主文第二項について
前記二3で認定した事実によれば、<1>昭和五二年度に中学二年の学級担任であった中内が翌年度に学級担任に任命されなかったのは、丸亀校における従前の例からみて異例であったこと、<2>その理由につき、中内が昭和五三年五月一〇日に倉田校長に尋ねても、同校長は具体的理由を説明しなかったこと、<3>その時点で中内は参加人の執行委員であったこと、<4>昭和五二、五三年度の学級担任の任命において、中内を含めて四名の参加人の組合員が担任からはずされたほか、昭和五三年度には、更に二名の参加人の組合員が異例の共同担任制における担任とされ、これらの措置について参加人が団体交渉の席上でその理由の説明を求めても、原告はこれを一切明らかにしようとしなかったこと、<5>本件救済申立事件の係属中、原告側は、中内の学級担任をはずした理由を種々主張するなどしたが、その担任をはずす旨の結論を出したという主任会に出席していた倉田校長と寺嶋正昭副校長とで説明した理由が異なっていたことなどが明らかであり、以上の諸点に前記1指摘の原告の組合嫌いの言動を総合すれば、原告が昭和五三年度の学級担任の任命において中内を担任からはずす措置をとったのは、中内が参加人の組合員であるゆえをもって不利益に取り扱ったものと推認するのが相当である。
(人証略)中には、中内を昭和五三年度に学級担任としなかったのは、中内が昭和五二年度に中学二年の数学の授業進度を極端に遅らせていたため、同人を翌五三年度の中学三年の数学の担任からはずさざるをえなかったことが、そのほぼ決定的な理由であったなどと供述する部分があるが、それが真実であれば、右<2>の中内の質問に対してこれを述べなかったのは不自然というほかはないことや、前記二3(七)における認定事実等に照らし、右供述部分を措信することはできず、他に右推認を妨げるに足りる証拠はない(なお、前記二3(二)(3)における認定事実によれば、昭和四〇年度から昭和五〇年度までの間に中学二年の学級担任であった者で、翌年度に中学三年に担任を持ちあがらなかった者が二五名中六名おり、原告の主張する二年間のサイクルが存するかの如くであるが、右六名中三名は中学三年以外の学級担任になっていることからも明らかなように、右二年間のサイクルがあるからといって、翌年度に担任からはずされなければならない理由はないから、この点は右推認の妨げとはならない。)。
そうすると、原告の中内に対する右措置が労働組合法七条一号の不当労働行為にあたることを前提に、原告に対し、学級担任の決定にあたり中内を組合員であるゆえをもって他の教員と差別することなく、速やかに同人を学級担任に復帰させるべきことを命じた本件命令主文第二項は相当であるから、その取消を求める原告の請求は理由がない。
3 本件命令主文第三項について
昭和五三年七月八日に倉田理事長が近藤を介してした武田に対する退職勧奨は、前記二4(三)認定のとおりの同理事長がその際近藤に話した内容からする限り、武田が原告の教育方針に賛成できないというような趣旨の発言をしたことが学級新聞の記事になった件を理由とするものとみる余地がないではない。しかしながら、真実それを理由に武田に退職を求めるのであれば、事前にその件について武田から釈明を求めるなり、少なくとも近藤との会談の際に武田を同席させ、同人が本当に原告の教育方針に賛成できないという考えを有しているのかどうかを確認するのが自然な成行きであると考えられる(この点、昭和五五年七月一六日に倉田理事長が武田に話した内容によれば、同理事長は、近藤から武田が右のような発言をしたことを反省しているという趣旨の手紙が来たことによって、武田に退職を求めるのをやめたということになるのであるから、なおさら最初の段階で武田の真意を聞いてしかるべきであった。)。しかるに、倉田理事長がこれらのことをしていないことは、弁論の全趣旨に徴して明らかである。このことに、前記二4(二)で認定した昭和五二年一月二〇日の同理事長の武田に対する退職勧奨の経緯及び前記1指摘の原告の組合嫌いの言動を考え合わせると、右の昭和五三年七月八日の退職勧奨は、武田が参加人の組合員であることを原告が嫌悪し、そのゆえになされたものと推認するのが相当である。
原告代表者の本人尋問の結果中には、右退職勧奨は、前記インタビュー記事の件を含む武田の非違行為等を理由とするもので、同人が参加人の組合員であることとは無関係になされた旨供述する部分があるが、これは前記のような点からしてたやすく措信することができず、他に右推認をちゅうちょさせる格別の反証はない。
そうすると、右退職勧奨が労働組合法七条三号の不当労働行為にあたることを前提に、原告に対し、武田が参加人の組合員であるゆえをもって同人に退職を勧奨することにより参加人の運営に支配介入してはならない旨を命じた本件命令主文第三項は相当であるから、その取消を求める原告の請求は理由がない。
4 本件命令主文第四項について
(一) 原告は、掲示板設置要求という事項は任意的団体交渉事項であるのに、これについて原告に団体交渉の義務を課した右主文は違法である旨主張する。
しかしながら、憲法二八条や労働組合法が労働者に団体交渉権を保障した趣旨・目的には、労働条件の取引についての労使の実質的等質化ということのほか、労使関係に関する労使自治の促進ということも含まれているものと考えられるので、組合活動に関する便宜供与やそのルール等の労働組合と使用者との関係を運営する上での諸事項も義務的団体交渉事項にあたるものと解するのが相当である。したがって、原告の右主張は採用できない。
(二) 次に、原告は、参加人の掲示板設置要求については、すでに昭和五二年一〇月一五日と昭和五三年五月九日の団体交渉において十分な交渉がなされており、原告が誠実に交渉しなかったものとされるいわれはない旨主張する。
ところで、いわゆる誠実交渉義務とは、使用者の団体交渉義務の基本的内容をなすものであり、労働組合の主張に対し誠実に対応することを通じて、合意達成の可能性を模索する義務をいう。すなわち、使用者には、結局において労働組合の要求を拒否する場合でも、その論拠を示すなどして十分な討議を行い、労働組合側の説得に努めるべき義務があるのである。
これを本件についてみるに、原告は、右二回の団体交渉において、参加人側が具体的な場所をあげて組合掲示板の設置要求をしたのに対し、いずれの場合もその冒頭からその要求に応じる意思がないことを明確に示していたもので、その後討議を行う中でも、例えば、掲示板を設置する適当な場所がないという論拠を挙げはしたが、それも、参加人側の提案にかかる具体的な場所について一つ一つ検討してみるという態度ではなく、「校内で生徒の目に触れないようなところはおよそない。」というような一括した発言で片づけていることからも明らかなように、単に形式的理由として挙げただけで、実質的な討議を行い、参加人側を説得するというような態度をとっていなかったといわざるをえないから、いまだ、誠実交渉義務を果たしたものとは認め難い。
したがって、原告の右主張も採用できないものであり、結局、原告に対し、参加人の組合掲示板設置要求について誠意をもって団体交渉に応じるべきことを命じた本件命令主文第四項は相当であって、その取消を求める原告の請求は理由がない。
四 以上の次第で、原告の本件請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 渡邊貢 裁判官 水島和男 裁判官 小田幸生)